鎌倉城
 
七つの砦(切通し)を廻らせた城郭都市.鎌倉城


鎌倉の防衛線・七切通し
周り三方が山で前面が海の中世鎌倉城
鶴ヶ岡八幡宮

1180年.治承4年 源頼朝 鎌倉に入る
 頼朝 鶴岡八幡宮を造る。また 政子の安産を祈り、八幡宮参道(若宮大路)を造営。
1185年.文治元年 平氏 壇ノ浦で滅亡
1192年.建久3年 頼朝征夷大将軍になり、鎌倉幕府を開く。
1199年.正冶元年 頼朝 没。 頼朝の突然の死によって、鎌倉将軍の専制体制に変わり、
 北条氏を中心に有力御家人による集団指導体制となる。頼家二代将軍となる。
1203年.建仁2年 実朝三代将軍となる。
1219年.承久元年 頼家の子.公暁 実朝を暗殺する。公暁も殺され源氏は三代で絶える。
1221年.承久3年 後鳥羽上皇による承久の乱で幕府の支配体制は安定し、強大な権力が集中し、
 武士の都.鎌倉は、めざましい発展をとげる。
1232年.貞永元年 北条泰時は貞永jouei式目五十一ヶ条を制定し、幕府政治の基礎を固める。
 貞永式目は鎌倉殿(将軍)の専制体制にかわって、法治主義と合議制を柱とする執権政治を確立する。
1333年 新田義貞により鎌倉幕府亡ぶ
1338年 足利尊氏 征夷大将軍になる
1512年 北条早雲 鎌倉に入る
1590年 秀吉により北条討伐。 関東八国を家康統治
1615年 豊臣氏滅亡

いざ 鎌倉
一の鳥居
参詣路の段葛dankazura
三の鳥居

参道
舞殿
大銀杏
舞殿 頼朝に追われ義経とはぐれた静御前が「しずやしず しずのおだまきくりかえし 
 むかしをいまとなすよしもがな」と歌い舞った。
大銀杏 二代将軍頼家の子.公暁が三代将軍実朝を暗殺した所と言われ、生き証人となった大銀杏。

関東武士 源頼朝.義経.北条政子らが歴史をつくり、鎌倉は奈良.京都とは違った 東国の古都である。
鎌倉幕府は都市鎌倉の充実と拡大を計った。
夜警のため、辻つじに箒火屋kagaribiyaを設置、市の衛生管理のため街路の中央に溝を掘り、
洗用と消火用に使用した。
死者.牛馬の死体を路上に放置する事を禁じたり、商業地による商業の発展を計った。
頼朝を大将軍として支えた東国武士団で西国の支配者である天皇.公家集団に比べれば 貧しく、粗野で
政治の何たるかも知らない未熟集団ではあったが 次第に力をつけ、独自の文化を生み、歴史の集積が
鎌倉に見られた。
頼朝が鎌倉を幕府の地として選んだ理由は 三方が山で一方が海のため、守り易い地形であった。
鎌倉を囲む山の尾根は城壁の役を果たし、町自体が城壁に囲まれた城郭都市であった。
しかし、人口の増加により物資を大量に運び込むために 山を削り切通しの道を造った。
鎌倉の七切通しは極楽寺坂.大仏坂.化粧kewai坂.亀が谷坂.巨福呂kobukuro坂.朝比奈坂.名越坂である。
切通しは敵の侵入を防ぐため、切岸.平場.土塁.空堀の防御施設が設置された砦である。
七つの砦を外側に巡らせた城郭都市「鎌倉城」である。

左は「お猿畠の大切岸」で二段.三段に岸壁が立ち上がり、犬走り状の狭い平地があり、
伝令が往来できたり、武士が待ち構えたり、複雑に防御線が張られている。
右は「名越坂切通し」で道を狭く切り下げた切通しの部分と片側が崖になっている山腹道の部分とが
数ヶ所ずつ造られ、複雑に構成された砦となっている。

円覚寺
建長寺
大仏

1249年建長元年 執権.北条時頼の保護を受け、宋から来日した蘭渓道隆は一大伽藍.建長寺を建立。
時まさに北条氏のよる執権政治が確立しようとする時である。
小袋谷を埋め尽くした壮麗な建長寺は北条氏の権勢のシンボルとなった。
幕府の信頼厚かった蘭渓道隆が没した後、執権北条時宗は来日した無学祖元に参禅し、蒙古襲来など
多難な政局に直面する時宗の大きな精神的支柱となった。
時宗は無学祖元のために国土の安康と蒙古襲来に戦死した者への供養を込めて円覚寺を建立した。
鎌倉には臨済宗の寺が多く、北条氏は中国の五山にならって鎌倉五山を開いた。
建長寺.円覚寺.寿福寺.浄智寺.浄明寺の五ヶ寺である。
鎌倉へは四季折々何度も訪れ散策している。特に毎年大晦日の31日は欠かさず訪れる。
何故なら人々はきれいに掃除して初詣の準備をし、訪れる人も一年を通し一番少ないのでは。
静かに落ち着いた古都鎌倉を味わえる。

歌川広重.雪の鶴ヶ岡八幡・若宮大路の珍しい浮世絵(日本浮世絵博物館蔵)

                                                2001年 平成13年7月8日
                                                      
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