岐阜城


岐阜城 稲葉山城.金華山城 フロイスが「地上の天国」と称した (岐阜城.美濃文化財研究会)

岐阜城空撮
左 七間櫓(黒い建物). 天守閣. 右端 上台所の太鼓櫓

1201年 建仁元年 鎌倉幕府の執権 二階堂行政が創建
      鎌倉時代の山城で二階堂一族が居城、山麓山上の詰め城という鎌倉時代の典型的な構想。
1539年 斉藤道三 稲葉山城を改修
1567年 信長は斉藤龍興tatuokiを攻め落とし、小牧山城から稲葉山城を居城とし 町割り.城下町として
      大改修 岐阜と改めた。

      城は金華山の主峰を本丸とし、西南に瑞龍寺山、北は長良川の断崖にのぞんで、
      東南は谷の深い泥田になっている。
      登り口は二つ、追手は七曲、搦め手は百曲の他に 水の手口と呼ぶ険阻な細道がある。
      1576年、安土城に移る10年間 本拠地とした。また金華山の麓に「千畳敷御殿」といわれる
      豪華な居館を建てた。町割りにも心を砕き見事な城下町を造った。
      町屋の再建.寺社の修復.「楽市楽座」を設け、市場税その他の一切の諸税を免除、
       全ての人に開放され情報も集まった。市は市場.座は中世商工民の組合のことをいう。
      また、「天下布武」の朱印状を発布し、天下統一を目指した。
千畳敷御殿より
天守閣
搦め手より
天守閣

         その後、長男信忠に譲って安土城に移った。しかし 1582年天正10年6月2日「本能寺の変」で
      信長父子は明智光秀に討たれた。信長49才.信忠28才
      光秀は9日天下で秀吉に討たれ、信長の三男.神戸信孝が城主となるが、柴田勝家と秀吉の争いで
      勝家側に味方し、信長の次男.信雄と秀吉側に敗れ 秀吉に追われて自害する。
1584年 秀吉の命により 池田輝政が城主になり山頂に三層の天守閣をたて、城下町の総構えを大補強した。
      姫路城の天守閣と共通するところが多い。輝政は慶長18年1月に50才で没す。
 岐阜城は木曽三川の一つ、長良川の南岸にあって、標高338m北.東.西の三方は急峻な断崖に阻まれている。
千畳敷御殿跡
天下第一の門
二の丸門跡

信長は平常時は千畳敷御殿で生活し、非常時に山上の城櫓に籠もって戦った。
山頂の縄張りは 後の安土城の大手道.七曲坂にもなっている 大手道七曲口から堀切を通って、
頂上近くの「馬場」に至り「下台所.上台所」を経て 天守閣に至る。
二の丸より天守閣
天守閣へ
天守閣

天守閣は七間四方、岩盤の露出した地形に本丸.二の丸、広い平地が取れないので各所に小曲輪が
点在する城で上台所.下台所があり、上台所に太鼓櫓を造りここに御殿(天守閣の代用.今は資料館)を建てた。
七間櫓は上格子門西方の高所にあり南北10間.東西5間の平地で望楼的建築の櫓であった。現在の展望台の所。
また馬場跡などがある。千畳敷御殿は実際には300坪位だったらしい。
 「美濃を制するものは 天下を制する」といわれ、約440年前の戦国時代には稲葉山城(岐阜城)は
征服者の王座であり、権力者のシンボルでもあった。城主は斉藤道三から信長へ、約80年間は東西の
接点、中原の地として争われた。
天守閣より眼下の長良川
本丸井戸
本丸より二の丸橋へ
二の丸より七間櫓へ

信長時代の豪華な城郭はポルトガルの宣教師ルイス.フロイスの書簡によると 山全体が一大城郭に
なっている。人口は8千〜1万人で「バビロンの混雑」のようだと本国に報告している。
道三時代もこのような城であったが、建物と庭園は京都北山金閣寺.東山銀閣寺風の豪華なものであり、
茶室は全て桜材を用いた。道三の茶道は信長と光秀に授けられた。
信長時代は朱漆の欄干.黄金の金具をふんだんに使った南蛮風の派手な建造物であった。
大工は道三が招いた尾張熱田の宮大工 岡部又右衛門であり、後に信長の安土城.秀吉の京都
大仏殿.家康の名古屋城を建て後世に名を残した。
信長時代の岐阜城禄高は250万石、道三時代は50万石であった。
関ヶ原後、天険の要害である岐阜城を破棄し廃城とした。余りにも堅固な城なので敵側に渡った時のことを
考えたのであろう。
岐阜城址と岐阜町は大久保岩見守長安が支配し、陣屋を建て 中世居館形式のものであった。
昭和31年 復興再建する。
七曲大手道へ
人懐っこいヤマガラが手の平に
止まって歓迎の挨拶をしてくれた
天下布武の印

                                            2001年 平成13年10月20日
                                                      15年4月6日
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