安土城


1581年 信長がイエズス会の神父に贈呈した狩野永徳父子の屏風絵「安土城図」

安土城
日本の城は室町時代以前に築かれた中世城郭と桃山から江戸時代に築かれた近世城郭に区別される。
中世城郭は山の頂に築かれた小規模な山城が多い。
近世城郭は平地に築かれた平城、あるいは平地の小山に築かれた平山城で高い石垣、水を湛えた広い堀
天守や多数の櫓、立派な御殿、賑やかな城下町が形成される。
大手正面より西平入り虎口
大手門前馬場広場
大手正面より東平入り虎口

大手道より見た東虎口
大手道
大手道より見た西虎口

安土城南口は東西約110m の石垣造りの石塁があり、その間に4箇所の出入り口がある。
信長は天皇の行幸を計画していたので、大手門の他に三門にした。
そして通常大手門の西桝形虎口 1 、以外の三門は行幸など公の時に使用したと推定される。
       

信長は軍事拠点としての城の活用を心がけた。情勢即応型の戦略で琵琶湖を後ろに控え、眼下に中仙道を
見下ろす要塞安土山に五層六階の天主閣、石垣を含め60mの大城郭安土城を1576年天正4年築いた。
尾張統一の時は居城を那古野城から清洲城に、美濃の時は小牧山、天下布武になると京に近い岐阜城に、
天下政権を確立するために安土城へと居城を変えた。そして城郭の形態は中世城郭から近世城郭へと移った。
天正元年.1573年に室町幕府を、さらに浅井.朝倉を滅ぼし、天正3年.1575年武田勝頼を
長篠の戦いで破ったことで 天下人としての地位を確固たるものとした。
信長は勢力の伸展と共に清洲城.小牧山城.岐阜城.そして安土へと居城を移した。時に43才
当時安土山は尾根続きで衣笠山に連なり、一方は琵琶湖に突出した半島で船による物資の運搬も出来た。
近年の発掘調査により、大手道が発掘された。
大手道は大手門より幅6mで180mの直線部分、横道.七曲部分.主郭外周路部分の三つから成っている。
直線部分は両側に約1mの石敷き側溝があり、外側は高い石塁が築かれている。道の東西には ひな壇状に
武家屋敷を配している。
直線部分は110段の石段、そして左に直角に折れ曲がる横道、更に七曲状の道は梯子を登る様な
急峻な坂がジグザグに屈曲しながら真上に向かって延びている。

大手道の登り口は左右に秀吉.利家邸、その上のハ見寺が建っている所には家康邸そして祐筆の武井夕庵邸
長男信忠邸がある。更に幅広い、真っ直ぐの石段を50m程登ると、黒金門跡に出る。
大手門より大手道を望む
大手道
左.秀吉邸跡 右.利家邸跡

横道は直線部より左に登っている
七曲ジグザグ急坂部の石段
武井夕庵邸址

大手道最上部
百々橋道へ、右.天主へ
織田信忠邸址

黒金門へ
50m位の石段
途中に左.織田信澄 左.森蘭丸邸址

黒金門
正面の巨大な石垣
左への虎口

右へ表御門本丸へ
出ると左上への石段
織田信雄四代の墓

引き返し二の丸へ(二の御門)
(三の御門へ)
三の御門そして二の丸下帯曲輪(御白州)

(御白州より)左に二の丸への石段
二の丸へ
信長廟(表御殿)

信長の墓
二の丸を下り
仕切り門(本丸西虎口)を通り本丸へ

本丸.千畳敷御殿跡(南殿)
天主閣へ
天主閣下帯曲輪

天主閣虎口の石段
天守閣址へ
天守閣入口

天主閣入口門址
天主閣入口門礎石
天主閣礎石

天主閣址と石塁
近江八幡山を望む
本丸北虎口址(八角平へ)

本丸東虎口址
三の丸石垣(江雲寺御殿)
本丸中央遺跡

信忠邸まで戻りハ見寺.百々橋へ
ハ見寺石垣
ハ見寺門礎石

ハ見寺跡
琵琶湖を望む
三重塔遺構

仁王門遺構
仁王門
百々橋口の安土城址碑

天正4年1576年 時の天下人.信長は丹羽長秀を普請奉行に、羽柴秀吉に縄張奉行、作事.大工に
岡部又右衛門に命じ、かって見たこともない城の築城工事を行った。
3年後の天正7年.1579年6月 前代未聞の安土城が完成した。
山頂に五層六階の高さ60mの天主閣は地下一階、地上六階の天主で
(二条城、安土城は殿守.殿主.天主とした)五階を法隆寺夢殿の姿にし、六階は金閣寺を模した
金箔貼りにした天主閣が燦然と輝いていた。そして、安土城主郭部本丸には三つの御殿
本丸表御殿.南殿.江雲寺御殿があり、特に表御殿の内部は金箔で黄金の書院造り、
外部は高価な黒漆塗りで、足利義満の金閣寺を優に凌いだものであったそうだ。
大城郭を造りあげ豪華絢爛な姿に宣教師フロイスを始め民衆が狂喜し、全国から見学者が集まった。
権力の象徴である安土の天主台は自然の地山を削り造成築城されたため不等辺多角形となった。東西17間
南北20間.約340坪の広さであるが、不等辺多角形の敷地のため建物.屋根と複雑な形態となった。
しかし、残念ながら1582年6月15日完成後3年、本能寺の変で 炎上焼失した。
本丸縄張り図
安土城図  1.登城口大手道 
2.百々橋口道   3.七曲道 4.搦手道
左.安土城 右.観音寺城

近江は地形的に日本列島の東と西.北と南を結ぶ ほぼ中央に位置し、東国.西国.北国をつなぐ重要な道が
あり、城の東を東山道(中仙道)が通り、北へ辿ると北国街道。南へ行けば東海道、天皇の居住する京都まで、
1日の行程。上街道は東山道、下街道は琵琶湖岸の浜街道が通っていた。
そして街道には関所を設けている。東海道には鈴鹿関.東山道には不破関.北陸道には蓬莱の関。
また 東山道の佐和山城.北国道筋の坂本城など軍事的にも経済的にも条件を満たしている。
安土山は当時、西.北.東の三方を琵琶湖に囲まれた標高200mの要害の地であった。
安土城の塁壁はすべて石垣で造り上げ、石段に石仏.石塔.供養塔.墓石が使われ敵兵をひるませた。
天主の二.三.四階は信長と家族の居所であり、安土城以降の大坂.名古屋.江戸城等の天主内部は倉庫であり、
安土城とは大きく異なっていた。天主地階入口は吊り上げ式扉だった。
山の頂上に天主.御殿、山腹に配下の諸将の屋敷、山麓に武家屋敷.町家が造られ、城下町経営に
力を入れ、楽市楽座による商業の発展を成し遂げた。また、穴生anou(大津市阪本)の石工集団が
造った見事な石垣と五層六階の天主。狩野永徳による障壁画。豪華絢爛たるものであった。

信長の天下布武の拠点として築かれた安土城であったが、1582年 天正10年6月2日京都
本能寺の変で倒れると、安土城の留守居役であった日野城主 蒲生賢秀(氏郷の父)が信長の一族を
日野城に避難させ、「財宝を運び出し 城に火をかけるべし」という声を無視し「信長公が心をつくして集めた
財宝を灰にするには 忍び難し」とそのままにして避難した。
そして明智光秀が入城、財宝を部下に分け与え散逸させた。
光秀は信長の次男信雄nobukatuに城をゆだね、秀吉と対峙するため山崎に向かう。
6月11日に光秀が討たれる。6月15日 安土城炎上。動転した信雄が火を放った。
と宣教師フロイスが云っている。しかし、これは「歴史の謎」とされている。完成して僅か3年。
安土駅より広がる田園の彼方に安土山の安土城が望まれる、右手には観音寺城がある衣笠山kinugasayama
が横たわっている。
安土城中枢部の主要な入り口である黒金門跡には大きな石が高く頑丈に固められた石垣になっている。
黒金門の表門を入ると、二の丸跡があり、石段を登ると秀吉が建てた信長廟が残っていてる。
新説にはこの信長廟は本丸表御殿で御殿の奥に天皇行幸時の御幸の間があったと示唆している。
安土城中枢部の建物は本能寺の変後に全て焼失したが黒金門付近も天主と共に火災にあい、
炎の凄まじさを残す石垣と礎石や多量の菊紋.桐紋等の金箔瓦が発見され、壮大な往時の姿が偲ばれる。
そして400年以上崩れることなく原型を保ってきた石垣構築の技術に驚かされる。
黒金門より中は信長の選ばれた側近達と日常生活を送っていた安土城の中枢部であった。
本丸は千畳敷御殿と呼ばれ、三方を天主台.本丸帯郭.三の丸の石垣で囲まれ、 天主閣は五層六階と
偉容を誇り、信長時代を彷彿とさせる当時の石垣を見ることができる。
また、搦め手道は琵琶湖に通じ物資の運搬に.軍船のによる兵の輸送に使われた。
安土城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道は大手門の所で左右に、天皇.大名のための
東西両虎口を有し、その上に書院造りの武家屋敷、更にその真上に聳え立つ絢爛豪華な金色に輝く天主閣に
街道を行く人は目を見張ったに違いない。

五階は法隆寺の八角堂、
六階は金閣寺を模した天主閣
天主閣断面図二.三.四階
は信長と家族の居所
本丸御殿復元図

平成14年夏には大手門跡の両東西40mの地点に城への出入り口「虎口」が発見された。
城正面は大手門より大手道石段までの約100mの間に大手門.東西の虎口の三つの門があったことになる。
両虎口は天皇や大名を迎えるため、別々に門を造ったらしい。
平成17年8月には大手門の南前に東西100m、南北44mの広場が発見された。
安土城跡では京都御所の内裏「清涼殿」に似た御所跡や、五層六階の天守まで一直線に延びる
大手道跡が発見確認され、防御を重視した戦国期の城郭としては異例の広場であり、権威を高めるため
天皇行幸の出迎えの儀式を行う広場と推定される。
平成元年から20年計画で発掘事業が行われ、現在は搦め手口や天主周辺の調査を行っている。

安土城跡略図 H17.8
安土城を結ぶネットワーク
信長像図


新説安土城主郭部本丸には三つの御殿
本丸表御殿.南殿.江雲寺御殿があった。
信長廟は本丸御殿跡で
御幸の間跡に眠っている


大手道に聳え立つ天守閣のイラスト
百々橋口道の総見寺跡で友人夫妻と
2006.4.22

                                                    2002.3.16
                                                    2003.3.30
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                                                    2007.10.6

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